政治の混乱に紛れて臓器移植法の改正案が衆院に提出されたと
いいます。この問題は政治や法律の問題ではないと思うのですが・・・。
臓器移植については、いくつかコメントを残していますが、
一番の大きな問題点は、「脳死」という、新しい死の定義を、
人間のエゴで作ろうとしていることです。
臓器の移植をするためには、生きている臓器を必要とします。
人間は死んでしまえば、臓器も死にます。
それでは移植しても使えないので、まだ臓器が生きている内に
摘出してしまおうという残酷な方法です。
それはお医者さまとはいえ、殺人罪になってしまいますから、そこで
考えだされたのが「脳死」という新らしい死の定義です。
「脳死」は、人間の生命維持に欠かせない脳幹という部分が死んで
しまった状態です。それは治療の方法もないので、このままの状態で
いれば、そのうちに心臓も止まります。
しかし、そこで心臓が止まらないように維持装置をつけると、
心臓は止まらず生き続けます。
和尚の叔母も2年近く、この脳死状態ですが、心臓も動き体温もあり、
涙も流し、寝たきりですが身体的な反応がある状態です。
人間の体は、常に「部分死」が起きています。
人間の脳細胞は140億くらいと言われていますが、20歳を過ぎると
1日に数万個から10万個くらい脳細胞が死んでいくと言われています。
昨日の食事が思い出せないのもあたりまえです。
シワや老眼にもなれば、筋力も衰えます。人間は、ある時期から常に
どこかで細胞や組織が部分的に死んでいるのです。
脳死というのは、たまたま「脳幹」という部分が「部分死」している
だけで、それは最終的な「死」では「ない」のです。
つまり臓器を取り出したいがために、人間が勝手に作り上げた死の定義
でしかないのです。
もちろん、この臓器移植しか治療の方法がない方がいます。
特に小さな子供場合は、「何とかしてあげたい」と胸が締め付け
られ、体が震えるくらい心が痛いです。
仏教では、「生への執着」が消えたところに「悟り」があります。
逆に言えば、「生への執着」がある時は「悟り」は開けません。
人間は、いつか「死」を迎えます。
和尚は、もし自分や家族が、このような選択を余儀なくされたときは、
脳死や臓器の移植はしないでしょう。
むしろどこかで、その大切な「死」を家族でしっかりと受け止めて
いきたいと思っています。
難しですね
私も和尚様の考えに賛成です。
でも、実際にそのような立場になったら、
どんな感情があるのか想像もつきません。
難しですね
私も和尚様の考えに賛成です。
でも、実際にそのような立場になったら、
どんな感情があるのか想像もつきません。