戦没者供養その2 「放棄された当時の姿」



到着時には、真っ暗で全体像がわからなかったのですが、
朝起きてカーテンをあけると、緑の芝生とヤシの木に
囲まれ、コバルトブルーの海が広がっているではありませんか。

東京から4000キロしか離れていないのに、こんなに美しい光景は
なんだか不思議な感じがします。

しかし、この島では1944年2月17日と18日に想像を絶する
アメリカ軍による大空襲に見舞われたのです。

2日間で1200機以上の爆撃機。民間人を含む1万人以上の
日本人と、多くの現地人が犠牲となったのです。

コバルトブルーの海は、真っ赤に染まったといいます。

チューク島は、第一時世界大戦の終了時にドイツから日本に
委譲され、信託統治していた時代がありました。

そこでは、5000人以上の日本人が働きコンクリートの道路や
飛行場、住居、学校、病院、商店など、大きな日本人街が造られた
のです。

南の島では無縁と思われますが、道路には側溝があり、極めて
日本人的な細やかさが感じられます。

そんな日本統治の名残で、老人は日本語を理解します。しかも和製英語?
みたいに、鍋、網、写真、自動車、床屋など、たくさんの日本語単語が、
今でもこの国で当たり前のように使われているのです。

その後には、南洋庁トラック支庁がおかれ、日本本土からの移民者も
多く、夏島を中心に3万人を越える日本人が生活したのです。

日本海軍の司令部や連合艦隊司令部や陸軍師団司令部も設置され
ました。環礁で囲まれているために、潜水艦の攻撃から守ることが
できたために、戦艦大和や武蔵が錨泊し、海軍将兵にとっては、
心休まる場所となったのです。

この写真は何だかわかりますか。これは戦艦大和や武蔵を係留する
ときに使っていた巨大ブイです。
このような軍関係や民間の建物跡が今も島の随所にみられます。

山本五十六も、この島で登山をしたことがあるとか・・・。彼が
亡くなった時には、チューク島に停泊していた大和に1ヶ月ほど
安置され、武蔵で日本に着いたとか・・・。

多くの日本人が、この島で何をして、何を思い、何を感じながら
生きていたのか・・・。

食事をして、本を読み、居眠りをしながら、わずか6時間ほどで、
ここまできた戦後生まれの和尚にとっては、想像できないことですが、
心地良い風にあたりながら、これからに供養の気持ちを調えました。

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