臓器提供は慎重に



年金問題や薬害問題で騒いでいる間に、社会保険庁から
保険証の裏面に「臓器提供意思表示欄」を、という
案内がきました。

つまり、自分が死んだときに臓器提供の意思表示の
方法・機会の拡大を図ることを目的として、健康保険証の
裏面に臓器意思表示欄を設けるそうです。

これが表示された場合には、法律に規定する効力と
同じように取り扱われるといい、もし「有」にすると、
自動的に臓器が摘出されてしまいます。

そもそも臓器移植とは、自分の身体の臓器等が不治の
病いになったときに、他人の臓器等の提供を受けて移植
する医療行為です。

生きている人間から臓器の摘出はできませんから
亡くなってからの話です。そこで問題となるのが
新しく作られた「脳死」という死の判定基準です。

脳死とは、生命維持の中心にある「脳幹」の働きが
よみがえらない状態をいいます。それは延命の手段が
なく、いづれ心臓も停止してしまいます。

しかし、人口呼吸器という装置をつけると、心臓は止まる
ことなく動き続け、体温もありヒゲものびてきて相当期間に
わたって生きられます。

もちろん寝たきりですが、なぜ、そのような無駄とも思える
装置を取り付けるようになったかというと、新鮮な臓器を
取り出せるからなのです。

「どうせ死ぬのなら自分の臓器を提供して役にたちたい」
「提供を認める」と答えた人の多くの意見です。

しかし、臓器提供の前に「脳死は本当に人の死なのか」
という大問題があるのです。

脳死と判定された人が子どもを出産したり、現場の
医療スタッフが「臓器摘出でメスを入れる際に、
動き出すのを抑えるため麻酔をかけた」とか、「脳死を
人の死と認める」ということが、医学的に妥当かという
ことに疑問を持っている人も多くいます。

和尚も脳死は、人の死ではないと思っています。

臓器移植という行為をしたいために、人間が作り出した
傲慢な死の考え方であるからです。

臓器も「仏種」ともいうべきものであって、まさしく成仏の
器でもあり、「物」ではありません。

立派な布施行という人もいますが、布施には三輪清浄といって
臓器を提供する人、臓器を受け取る人、臓器の提供に関わる
すべての人の心が清浄であり、私利私欲があっては「布施」
にはなりません。臓器移植にあたっては、これは不可能です。

ましてや臓器移植を推進する立場の人においては、それが
布施行であろうが、なかろうが、全く関係のない話なのです。

大切な家族が、臓器移植しか生きる道がなかった場合に、
それを選択する気持ちも理解でき、とても心が痛いです。

でも、いずれ人は死を迎えます。

残された命の時間を有意義に家族と共有できる死の迎え方も、
一つの生き方だととも思っています。

臓器移植は、一部のマスコミの先導によって美名に取り上げ
られたり、今回の健康保険証の意思表示についても、とても
政治的な臭いがします。

それぞれが、その実態をよく把握して、意思表示の有無に
ついては、是非とも慎重にお願いします。

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