あなたが来るのを待っていた



804年、弘法大師空海は、藤原葛野麻呂を
大使とする第17回目の遣唐使団に加わり
仏教を学ぶために長安(現・西安)に渡り
ました。

都についた弘法大師空海は、各寺を回って
名僧を尋ねたのです。
そして長安の名刹だった青竜寺の恵果阿闍梨を
師として学ぶことになりました。

しかし師はすでに病弱で恵果阿闍梨は・・・、

「私は、あなたの到来を前から知って待っていた。
早く灌頂壇に入り真言密教の教えを、あなたに伝えたい」
と言われたとか・・・。

考えてみれば空海は、船に乗る数ヶ月前まで、正式
な僧ではありませんでした。そんな空海が、なぜ公の
遣唐使となることができたのでしょうか?

今でいう国家プロジェクトの月ロケットに乗せて
もらうくらい大変なことだったに違いありません。

そして恵果阿闍梨は、弘法大師空海が来ることを、
なぜ知っていたのでしょうか?

しかも、何千人といた中国のお弟子さんよりも、なぜ
弘法大師を空海を選び、言葉もままならない一人の
日本人に大切な教えを、なぜ授けてもらえることが
できたのでしょうか?

さらに弘法大師空海は、216部461巻の教典や
曼荼羅や密教仏具などを、たくさん日本に持ち帰ります。

阿闍梨様から頂いたものもあるでしょうが、それなりの
費用がかかったことでしょう。どこにそんなお金が
あったのか・・・?

この疑問を解くために、弘法大師空海には謎の時間が
あります。日本の山で修行をしていた事になっていますが・・・。

でも、その間に密かに中国に渡り、恵果阿闍梨と十分な関係が
できていて、中国語もペラペラだったということを言う方も
います。

また、仏具などを金色にするためには、鍍金(ときん)という
メッキ処理をしなければなりません。その為には水銀は大切な
鉱物でした。

その水銀の錬金術を熟知していて、中国の職人さんとも
交流があったとか・・・。

考えて見れば高野山も四国八十八カ所の霊場も水銀鉱脈の
重要なポイントにあります。そう考えると謎が解けるよう
な気がします。

祖師の事をこんな風に考える事は、不謹慎であるかもしれま
せんが、能力があり、人一倍好奇心が強く、何と言っても
誰よりも「先を読む」力があった方だったと思います。

自分が目指した真言密教を求め広めるためには、どのような
方法があり、何をしなければならないか・・・。

その見極めが、人よりも数百倍すぐれていたところに、とても
魅力を感じます。

長安から帰国しても、弘法大師はすぐに都に入ることが許され
ませでした。国家の承認を得なければ、何もできない時代だった
のでしょう。

そのチャンスを待つこと十数年・・・。やっと弘法大師は、
師の恵果阿闍梨の「思い」を伝えることができたのです。
感無量だったに違いありません。

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