やっぱりお墓



ご縁をつないで和尚の寺にたどり着いた・・・。

数年前に最愛のご主人を亡くされた。当時お墓もなく
「オレが死んだら海にまいてくれ・・・」と言っていた。
家族も反対する理由もなく、むしろその思いを叶えて
あげることが、最後にできることだと積極的だった。

散骨のために業者に頼むと、遺骨を細かく粉砕しなければ
いけないとのこと。抵抗はあったが、海水浴で人骨が流れて
きたら自分でも嫌悪感があるので、納得してお願いした。

散骨の当日は船があれた。普通といっていたが慣れない
私には大変なことで、供養の気持ちなどはどこかに
飛んでしまい、気持ちの悪さと戦う船上だった。

それでも雄大で大自然の海原に主人が帰って行ったと
思うと満足感もあって良かったと思った。

しかし、それから一周忌を過ぎたあたりから、自分の心に
不安が広がってきた。

上手くは言えないけれど、海という大きさにどこへ
手を合わせ、自分の気持ちをどのように伝えれば
良いのか・・・。
主人が遠くの方へ行ってしまったような寂しさ・・・。

「自然に帰る」ということが、頭でわかっていても心が
理解をしてくれない。主人の確かな実体を感じたいと思う
ようになったという。

散骨の時に業者さんが気をきかして作ってくれた、ペンダントの
中に残しておいた少しの遺骨。
この遺骨も子どもや孫の時代になれば、どうなってしまうか
わからない。

そう思うと余計に不安になった・・・という。

お墓が欲しい。

そこに残された少しの遺骨を納めたい。
そう思うようになったのが3回忌を迎える時だった。

今年5年目のお彼岸を迎えた。
両手で墓石をさわりながら長い祈り・・・。

「その時には、わからないことてあるんですね」
笑顔の奥には、納得できた安心感があるのだろう。

今年のお彼岸もお孫さんや親戚の皆さんもお参りにきて
香煙がたえなかった。

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