臓器移植を考える



内閣府が「臓器移植に関する世論調査」の結果を
発表した。

これによると自分が脳死と判定された場合に、自分の
臓器を「提供したい」と答えた人が41.6%いた。
また、家族が臓器提供の意志を示していた場合に、
その家族は、生前の意志を尊重して「提供を認める」と
いう人が、70.8%いるという。

そもそも脳死とは、生命維持の中心にある「脳幹」の
働きがよみがえらない状態をいう。延命の手段もなく
いづれ心臓も停止してしまう。

しかし、人口呼吸器の装置をつけると、心臓は止まる
ことなく動き続け、体温もありヒゲものびて生きられる。
なぜ、そのような無駄とも思える装置を取り付けるかと
いうと、新鮮な臓器を取り出したいからだ。

「どうせ死ぬのなら自分の臓器を提供して役にたちたい」
「提供を認める」と答えた人の多くの意見であろう。
しかし、臓器提供の前に「脳死は本当に人の死なのか」と
いう大問題がある。

脳死と判定された人が子どもを出産したり、現場の
医療スタッフが「臓器摘出でメスを入れる際に、
動き出すのを抑えるため麻酔をかけた」とか、「脳死を
人の死と認める」ということが、医学的に妥当かという
ことに疑問を持っている人も多いという。

和尚も脳死は、人の死ではないと思う。臓器移植という
行為をしたいための人間が作り出した傲慢な考え方で
あるからだ。

臓器も「仏種」ともいうべきものであって、まさしく成仏の
器でもあり、「物」ではないのだ。
立派な布施行という人もおられが、布施には三輪清浄といって
臓器を提供する人、臓器を受け取る人、臓器の提供に関わる
すべての人の心が清浄であり、私利私欲があってはならない
という。

その内に人工臓器なるものが発達して、「人間は何と残酷な
行為をしていたのだ」という日がくる・・・とは、現場の
お医者さんの言葉である。

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