カーネーションから考える


5月の第2日曜日は母の日。
街の花屋さんのみならず、スーパーやコンビニまでが一斉にカーネーションに
彩られる時期ですね。

カーネーションは和名では「オランダナデシコ」「オランダセキチク」などと
言うそうです。

江戸時代の初め頃、オランダから輸入されたことによるといいますが、どうして
オランダからだったのでしょう。

歴史好きな方は当然ご存じと思いますが、江戸幕府が交易を認めていたヨーロッパの
国がオランダだけだったからです。

南蛮貿易ということばもあるように、織田信長の時代にはスペイン、ポルトガルという
大海洋王国もさかんに日本にやってきていまいた。

しかし、これらの国は貿易と同時にキリスト教の布教も目的としていたために秀吉や家康
から危険視され、最終的に布教にそこまで力を入れていなかったオランダだけが
「貿易に専念する」という条件で日本への渡航を認められたのだとされています。

もっとも、現代でもそうですが、巨額の利益が動く貿易の裏にはさまざまな駆け引きがあるもの。

おそらくヨーロッパ諸国の間でも、日本の利益をめぐって諜報戦争のようなことが繰り
広げられたのでしょうね。

こうしてオランダが唯一の窓口となり、日本ではキリスト教が禁教となるいわゆる「鎖国」
の時代がやってきます。

そうなると、南蛮貿易の頃にキリスト教に改宗した人々には大変な苦難が襲いかかります。

西洋人の宣教師は追放され、日本人の宣教師、信者は激しい弾圧を受けることになりました。

悪名高い「踏み絵」はこの時に発明されたものですが、こうした弾圧にも耐え、キリスト教の
信仰を守り伝えた人々も少なからず存在しました。遠藤周作の『沈黙』をはじめ、この時期の
キリシタン弾圧を題材にした名作も多数生み出されています。

仏教とキリスト教、信仰するものこそ違えど、教えを信じ、迫害に向き合うキリシタンの姿
には深く心を打つものがあります。

仏教も日本ではもともと外来の宗教。飛鳥時代には仏教の受容をめぐって激しい戦争が
行われたことがあり、たった150年前の明治時代にさえ「神仏分離」の名を借りた仏教への
攻撃が行われたことがあるのですから。

といったことに思いを巡らせていましたら、先日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が
世界文化遺産に登録される、というニュースが聞こえてきました。

日本のキリシタンをめぐる歴史が、人類が残すべき普遍的な価値を有するものと認められたわけです。

歴史の激流のなか、胸に信仰の火を灯し続けた先人に心からの敬意を表したく思います。

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