宗派で発行している「光明」という施本の取材で
管長猊下のインタビューに伺いました。
来年の新春号取材なので、写真撮影の関係もあり、
猊下には、お暑い中にも関わらず冬物での取材で、
ご迷惑をかけてしまいました。
我々のような者が、管長猊下の間近でお話を伺える
ということは、この役職ならではの特権でもあります。
そんなお話の中に、江戸時代には猊下のお寺からご本山の
長谷寺まで勉強に向かわれた方がいたとか・・・。
その当時、真言宗豊山派のご本山は「学山」と呼ばれていて
学びの場所として、2000名近い僧侶が、本山にいたそうです。
長谷寺の記録の中にも、一斉にとろろ汁を吸うと、門前町に
ゴォ~~という大きな音がしたとか・・・。
当時のお坊さんにとって、徒歩しか交通の便がなく3週間以上も
かけて、ご本山まで行かれるということは、まさに命がけでもあり、
強い求法の志があってのこと・・・。
新幹線で気がつけば、到着という現代と比べれば、何とも
頭の下がる思いです。
その後、ご本山も廃仏毀釈と幕藩体制の崩壊などで、一時期は
2名ほどしかお坊さんがいなかったとか・・・。
栄枯盛衰とはいえ、行政の方向性と財政を支える基盤は、寺院運営に
大きなダメージを与えたようです。
平成の時にあって、一寺院を維持、管理していくには、外からでは、
目に見えない苦労があります。
大きなお寺に就職して、お給料をもらっているお坊さんもいますし、
お寺を持たないで派遣お坊さんとして、1日に何件ものお葬式を司る
お坊さんもいます。
伽藍と伝統を抱える和尚にとっては、10年後のお寺をどのように
デザインしていくのか・・・?
案外と伝統を守り続けて、何も変わっていないということが
大切なことなのかもしれませんね!!
どこかに大きな智慧がないかと、キョロキョロとアンテナを
伸ばしている毎日です。
あっ写真は、本山長谷寺に入ると一番最初に目に
とまる399段の登廊・・・。
今は亡き松本清張が、「美しすぎる、あまりにも美しい・・・」
絶句した場所でもあります。
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