仏の縁に導かれて...



悪代官とそれに賄賂をおくる越後屋・・・。
ご存じ水戸黄門の定番ですが、江戸時代といえば
年貢の取り立てとか封建体制のもと、庶民は不自由な
暮らしを強いられていた、というのが、かつての
定説でした。

でも最近では、江戸の人々は意外にもおおらかに、
のびのびと、日常を謳歌していた・・・という側面も
あることが、強調されるようになってきました。

お上の圧力もあったし、いまよりも自然災害に制約される
ことも多かったことは確かです。そんな中で、民衆は知恵を
しぼって難題をかいくぐり、案外したたかに生きていたようです。

庶民が「旅」を始めたのも江戸時代。
非日常的な発見や行楽(楽しみだけが目的じゃないでしょうが)を
求めて人々は街道を往復しだしました。

いまでは旧・街道筋もアスファルトに固められ、車が
スピードを上げて走ります。でも当時は、基本的にテクテクと
歩くわけです。

写真の右手の盛り土は、一里(四キロ)ごとに設けられた
「一里塚」のなごり・・・。

小山の上には、木が植えられて(なぜか全国的にエノキが
多かったそうです)、カンカン照りには、旅人は木陰に身を
寄せて休憩しました。

関所をつくって通行に目を光らせる一方、旅する人への配慮も
怠らなかったわけですね。

観音巡礼、お遍路さん、お伊勢参り、善光寺参り・・・などが、
爆発的にブームを呼んだのも江戸時代です。

「牛に引かれて善光寺参り」・・・その昔、不信心なお婆さんが
住んでいました。ある日のこと、どこからともなく牛が現われ、
庭に干してある洗濯物を角に引っかけて、逃げていきます。

怒ったお婆さんは、牛を追いかけ、追いかけて、あたりも
暗くなったころ、とうとう善光寺にまで来てしまいました。

お堂にかけ込む牛を追って、堂内に入ったお婆さん。
洗濯物を取り返すことも、すっかり忘れて・・・。

荘厳な仏さまの輝く光明に包まれて、ハッと菩提心に目ざめたとか!

数日後、お婆さんは近所の観音堂にお参りをしました。
手を合わせながら観音様を見ると、その御身には、あのときの
洗濯物がかかっていたではありませんか

ますます回心したお婆さんは、それから信心あつく暮らしたとか・・・。

「春風や 牛に引かれて 善光寺」(小林一茶)

厳しい世情にあって心にゆとりを持つことも、簡単では、
ないかもしれません。

暦の上では、節分が終われば春です。心地よい春風が吹く季節も
もうすぐです。

ときにはノンビリとお寺をお参りしてみれば、なにか新しいこと、
大切なことに気づくかもしれませんよ。

※写真は旧・水戸街道に残る「板谷の一里塚」です。

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仏の縁に導かれて... への2件のフィードバック

  1. makoto-jin-rei のコメント:

    榎(エノキ)の話
    和尚様、大変遅くなりましたが、
    今年もよろくしお願い致します。

    さて一里塚がなぜかエノキの多い訳。

    俗な一説に、徳川家康が、
    「一里塚には(目立つように)、
    並木とは違う、
    余の木(余っている木・他の木)を植えよ。」
    と、いう命令をエノキと聞き違えたんだとか。

    「余の木」を「私を象徴するような木」と、
    解釈する派生説もありますが、
    ケヤキの代用に多く使われるエノキを、
    家康の象徴にするのはおかしいですね。

    それからあまり関係ありませんが、
    エノキは「柄の木」という俗説あったりして。

  2. 和尚 のコメント:

    makoto
    そうだったんですか。さすがmakotoさん。

    同じような話に皇居の「松」の話がありますね。
    将軍は「待つがいい」と返事をしたのが、聞いた人が
    「松が良い」と聞き違え・・・。

    そんなわけで皇居前の「松」風景が、現在も続いて
    いるのかしら・・・?

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