今日で阪神・淡路大震災から15年になります。
和尚がボランティアに出掛けたのが、ついこの前のような
気がします。
人の命のはかなさを、目の当たりにして愕然とした記憶が
いまも残っています。
お寺が崩壊した姿は、言葉に言い尽くせない衝撃で、
その傾いた本堂で避難住民と暮らし、境内のドラム缶で
作られた仮設風呂で、多くの住民が利用されていた記憶も
心に残る光景です。
震災は、ボランティアや地域のコミュニティーの大切さに
ついて、そしてお寺と地域との関係について、改めて考える
きっかけになりました。
いま考えてみると、各地で「地域に開かれたお寺」への挑戦が
始まったのは、阪神・淡路大震災のころからではないでしょうか。
最近では、本堂や境内を整備する時に、地域の防災拠点としても
使えるように設計を工夫する例もみられます。
和尚の寺のことを考えてみると、金剛院が「赤門寺」と呼ばれ
るようになったのは、江戸時代に大火で焼け出され、避難してきた
人を数多く受け入れました。
その功績が幕府に認められて、縁戚にしか許されていなかった
朱塗りの山門を許されました。
あと10年ほどで、お寺ができてから500年を迎えようとして
います。その時を目指して本堂などの建物の建築を考えています。
地域とともに金剛院の伝統、その良さを、これからのお寺づくりに、
どのように生かしていくべきなのか?
阪神・淡路大震災から15年が経った今日、あらためて考えています。
お尋ね
和尚様
いつもブログを楽しみにしています。
神戸の震災から、15年ですか、、、。
私は大学で東京に出てきていて、震災のニュースを聞き、大阪の実家に電話したら、電話が繋がらなくて、焦った覚えがあります。
阪急線の駅近辺の崩壊の光景は、衝撃でした。
さて、またまたお尋ねしたいことがあります。
私は芝居をしているのですが、お世話になっている衣装さん(着付けなどをしてくださる職人さん)で、カミサマという方がいらっしゃいます。
カミさまのように着付けが素晴らしいということと、
実際、おうちが神道(富士山の山岳信仰だそう)で、衣装の仕事がない時は、神主さんなんです。
で、その方から、節分の大祭と、新年会のお誘いを
受けました。
私は、12月に母がなくなり、喪中です。
いつも1日と15日に行っている氏神様へも一年間、
お参りはしないつもりで鳥居はくぐらない様に過ごしています。
しかし、そのカミサマは、「実際は喪中でも、舞台の初日には神主さんがきてお祓いもするし、ケースバイケースでいいんだよ。」と言って、私が喪中なのもご存じの上で誘ってくださっています。
実際、その大祭と新年会は、女優さんたちが着飾って集まって華やかで、、、カミサマの生きがいなんです。
しかし、父にその話をすると、喪中なのに神社に行くなんて、けしからん!!ということになり、、、。
父の言い分が正しいのはもっともなのですが、私は仕事上のつながりもあるので、これはいきたいなあ、と思うのですが、、、迷ってしまいます。
和尚様は、どう思われますか?
カヤさま
カミサマが、そのようにおっしゃるなら、それも可かもしれません。
しかし新年会に、こられるたくさんの方もいて、
しきたりの大変な世界でもあるのでしょうから、
その方々が嫌がることもあるかもしれません。
スピード時代なので半年くらいなら、それも良い
かもしれませんが、12月の1月?で期間も短いので、私だったらお断りします。
なにか、その方が「形が良い」ように思いますし、
そういう「礼」を守れる方というカヤさまの
印象も、逆に好感を待たれるような気がします。
ありがとうございます
和尚様
お返事、ありがとうございます。
今回は、そのカミサマの会は、欠席させていただこうと思います。
和尚様のおっしゃる通りですね。
それに、母のために、たくさんのかたが思いを
よせてくださっている、そのお心も大切にしていかなくてはならないと思いました。
和尚様のおかげで、またひとつ、勉強を
させていただきました。
本当にありがとうございます。