赤門(あかもん)

赤門天明(てんめい)年中(1781~9)には、江戸にたびたび大火事が発生しました。
江戸市中にはやけ出された人びとであふれ、その一部は長崎村にもひなんしてきました。
このときの金剛院では、十九世・宥憲(ゆうけん)和尚が先頭に立って人びとを寺へ収容し、たすけたといいます。
この宥憲和尚の善行(ぜんぎょう)は、やがて時の将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の耳にとどいて、とくべつのごほうびがくだされることになったのです。
それが、朱塗(しゅぬ)りの山門を建ててもよい、というお許しでした。
このころ、赤い門を作るということは、将軍家と縁のある家などにだけ許されるものでしたが、特別にそれが許可され、建立されたのです。
安永9年(1780)年のことでした。

そして金剛院は、村民から赤門寺(あかもんでら)の名でしたわれ、平成6年6月27日、豊島区より有形文化財(ゆうけいぶんかざい)の指定を受けて現在にいたります。